2015年05月24日

宮沢賢治の手紙『あたまの底のさびしい歌』

『私はもし金をもうけてもうまいものは食わない。立派な家にすまない。妻をめとらない。』

今、宮沢賢治の親友や家族に宛てた手紙を集めた:『あたまの底のさびしい歌』を寝る前に読んでいる。



手紙には自己嫌悪、無力感や憤りの言葉に満ちている。たとえば父親に生活費を無心する手紙で、空想のみを生活して完全な現実生活から逃れて、ただもう人に怒り、世間を憤り、そのあげくに師や友を失い、うつ病まで患ってしまった・・ようなことを書いてます。

親や親友に宛てたプライベイトな文章なので、もし賢治がこの手紙の出版を知ったらきっと、真っ赤になって恥ずかしがるだろう。でもそれ故に、読むほうとしては素の賢治が感じられるのだ。生活力があまりない純粋で生真面目であると同時に未熟な空想家のちょっと情けない感じが親近感を抱かせる。手紙の中の賢治は『今どきの若者ときたら・・』と大人から嘆きの対象となる、頼りないけど理想と夢を持った今の若者とあまり変わらない気もする。(音楽は自分の生活には欠かせない、と書いており、実際貧しい生活の中、自給自足的生活をしながらも、レコード鑑賞や楽隊を作ったりしているのだ。なんだかインディーズで活動する今どきの音楽好きが口を揃えて言う ”NO MUSIC NO LIFE” の生き方:ニューエイジの先駆けのようだ。)


賢治は理想と現実の間で、あるいは仏道と世俗の間で真剣に苦しんでいるのが手紙から痛々しくもある。 しかし、真剣であればあるほどこかにヒューモアを感じないわけにいかない。そういうところが面白い。


とくに可笑しな印象的な内容として、『春から生き物のからだを食うのをやめました。』 と宣言しながら、刺身を食べてしまい、自己嫌悪のに陥ってしまい、『私は前にさかなだったことがあってくわれたにちがいありません。』などと書いてしまってるのだ。

宮沢賢治の手紙『あたまの底のさびしい歌』

賢治はすべての生きとし生けるものに全身全霊をもって感情移入してしまう感受性によって、苦しみ、また作品を生み出した。

彼は、理想の自然の調和と現実の暮らしの狭間で時に苦悩している。人間の生活様式が利便性を追い求めるあまりに、多くの豊かな価値あるものが失われていく・・・。不便で手間はかかるが、自然とともに生きるという人間の暮らし方が犠牲にならざる得ない時代の流れを賢治は百余年も前に全身で感じ取っていたのだろう。 賢治がイートハーヴと名づけた故郷でもある東北の震災後の日本を見たら賢治はどう感じるだろうか・・・。

宮沢賢治の手紙『あたまの底のさびしい歌』


彼の若すぎる晩年のほうの手紙では、

楽しめるものは楽しみ、
苦しまなければ苦しんで
いきていきましょう。



また書きます、とある。



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Posted by いっきゅう  at 23:45 │Comments(0)読書

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