2023年07月22日

トマトトースト・モーニングと伊万里市民図書館

夏休みですねえ。暑いですねえ。
今年は世界的に異常に暑いらしいですね。

さて、夏バテ防止に、まず朝食しっかり!


と言うわけで最近のお気に入りは食パンにスライスしたトマトを載せてこんがり焼いたものです。(随分高かったトマトの価格も最近は割合安くなりました)超シンプルだけどめっちゃイケます!甘じょっぱくなったトマトとこんがりサクッとしたトーストに絶妙にマッチします!
実は、バナナや梨パインも同じように食パンのせてトーストしてました。それぞれまぁまぁ美味しいですが、トマトバージョンが一番だと思います。

この「トマトのせトースト」は誰から訊いてやったものではないのですが、あえて言えば「ぼっちキャンプのヒロシ風」ともいえるかな?(BSに毎回予約録画してます)ヒロシはキャンプ場の近くのスーパーで手軽な食材をその時の気分で買い込んで、テントの前でいろんなことをブツブツつぶやきながら焚火しながら自炊します。家ではほとんど料理はしないそうだけど実に手際よく、おいしそうに仕上げていくのです。ササっと仕上げて、「映え」にもこだわるスタイルがいいよな、と思うのです。


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話変わります。
今日塾授業前に伊万里市民図書館に本を返して、また借りました。
今更ながらですが伊万里市民図書館の蔵書はなかなか充実していますね。とくにアートブックは良いものがそろっています。アートブック系はだいたい書店でも中身を確認できないし高価なものだからなかなか手が出しにくく、レコードのジャけ買いに近い。というわけで図書館で中身を確認して、気に入ったものを新刊や古本で探して買ってます。(そういえば我が書斎には最近どんどんと本が増えています。)

で、帰り際、西口に古本販売コーナーがあるのを発見!係の人に訊いたら土日に販売してるそうです。(図書館フレンズいまりさんという市民団体で運営されている。)

小コーナーではあるけど単行本が100円~50円文庫本が10円と並ぶ!やっス!

で、買いましたよ!


3冊で110円也


この本にびっくり!実はこの本は買うつもりだったのです。何たる偶然!最近はツイッターの影響か短いつぶやき系の詩歌が若い人の文学好きにの間で静かなブームのようです。その方面で評判となりました。



お洒落な本!と手に取ってみると「暮しの手帖社」とあった。そうきて、このデザインときたら「花森安治」だろう!奥付には記されてなかったが即決!あとでPCで調べてたらはやりそうだった!


この本や作者について何も知らないけど中身のイラストがとてもよかったので買い。

図書館では古本市も定期にやってるそうで(知ってはいたけどいつも逃してばかりです。)次は秋にあるということです。是非行ってみよう!

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塾勉強部屋に置いた本紹介
やはり写真+詩・つぶやき系です。



これは伊万里市民図書館にはありませぬ。たぶん(笑)
  


2023年07月02日

雨の日は積ん読棚整理(自宅編)

最近の雨の日の休日はもっぱら自宅の本棚整理。



エッセイ・アート本・雑誌が多い。未読かパラパラ拾い読みしただけのいわゆる“積ん読(つんどく)棚だ。

これまでは本の種類で大ざっぱに並べていた。単行本・文庫本・雑誌・・
でも、それじゃ面白くないかな?と。内容ごとに分類しよう!と。
だが全く進まない・内容を確認するため、ついつい読み込んで止まってしまうのだ。


日本の名随筆+珈琲・食べ物エッセイ
日本の名随筆は内容ごとに分けて、 文士たちの名文が楽しめる。
日本の名随筆全巻揃えたいものだ。



本の本・雑誌


音楽の本・雑誌


ファッション・暮らしの本雑誌


写真集・アート本・雑誌

その他、つげ義春などガロ系や大友克洋の漫画や旅エッセイ、村上春樹の本などなど・・

並べた背表紙眺めるだけでも楽しいが、本雑誌の顔でもある。表紙も並べてみたい。本はインテリアとしても有用だ。洋書やアート本をデザインブックとしてディスプレイすることを提案する東京神田の神保町:洋古書店 北沢書店は有名だ。


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ジャンルフリーの並べ方
ジャンル分けを横断する本たち。


並べていくうちに古書店の店主になったように差し込む棚を入れ替えては戻したり・・・映える棚づくりというか。で、結局、本の種類・ジャンル・内容より、雰囲気でならべた。なんでこの本はこの棚?と、問われれば、なんとなく雰囲気で・・本がこの棚に入りたがってるのです・と、言うしかない。でも、ひょっとしてこっちの方が、古本お客さんは観る人は楽しいかも。何が出てくるのか予想付かない、本の森林を探検するような・・。



#塾勉強部屋に置いてる本棚ツアー COMING SOON  乞うご期待!  


2020年04月28日

「ユリイカ 青葉市子の世界」

青葉市子。今この危機的時期に世界中の人に聴いてほしい・・いや聴かれるべきシンガーソングライターです。特段、「世界の危機」とか声高に歌ってるわけではないのですが・・。

今年の高校受験が終わった3月上旬ごろの話です。まだコロナが他人事のような時期です。息抜きに伊万里市民図書館で館内をぶらぶらしてたときに「ユリイカ 青葉市子特集」を見つけました。とてもめづらしい彼女の特集とあって、すぐに雑誌を取り上げその場で立ったまま読みふけりました。彼女のインタビュー(生い立ち、デビューそして今の活動。音楽表現の考え方。音楽仲間の出会いなどなど。)がまるで映画のようにです。うつくしい音楽のような言葉づかいで語られています。ハっと、気が付いてこれは借りて家でじっくり読まなくてては、と。その後、一度返却してからしばらく経ってもう一度借り直しました。また読み見直していると、これはずっと手元に置きたいものだとついに買いました。(はよ買え! CDは全部持ってます。confident)この本の収録は対談やいろんなジャンルの芸術家(メジャーからアンダーグランド)たちか彼女へオマージュや音楽仲間からの交流のエピソードなど、彼女への思いをつづった文章がどれもが、見事に凝凝ってっていてとても面白い。それと彼女の写真。ああ・・癒されます。



青葉市子は10年前のデビューの頃、天才少女出現!と一部の一流の大物アーティストたちが驚き・ザワつきました。吾輩は、彼女が細野晴臣さんMCのラジオ出演したのを聴いて、その独特の話し方やその音楽性に惹かれました。草の根の活動でテレビなどメジャーな露出はないですが、動画はたくさんあります。その可愛らしい風貌とその不思議なオーラにすっかり惚れこんじゃいました。(以来、ずっと彼女に片思いです。happy02

彼女はいわゆるシンガーソングライターなのですが言葉に対する考えが面白かった。言葉というのは便利だけど、意味には限界がある、と。歌詩の意味なんて2次的なもの。むしろ声の響き・音像をより大切したい、というようなことを言ってました。ミュージシャン仲間によれば、彼女はいつもうたってるそうです。言葉で語り合うより、ハミングで心が通じ合っているという・・。彼女の歌声は巫女(シャーマン)のスピリチュアルなエネルギーを帯びて、聴くものをうっとり夢心地にさせる・・。よく妖精の歌とか天使の癒しとか形容されますが、とてもそういうものだけじゃすまないもっと深い深い何者かを含んでいる、と感じます。それが何かは彼女が言う通り、言葉で語れないものだとおもいます。この本を読んでたしかにそう感じます。







彼女のライヴいきたい。いつか・・きっとね。  


Posted by いっきゅう  at 21:40Comments(0)息抜き・・・読書図書館から借りた本音楽

2015年07月20日

『バカなおとなにならない脳』

『バカの壁』で有名な養老孟司『バカなおとなにならない脳。』を読んでいる。脳についての子供からの質問に対する、ラジオ相談室にようなエッセイ。読みやすく面白い。

頭の良し悪しについて、脳の機能性をあげていた。いろんな場面が想定されるが、とくに学習については、入力と出力の繰り返し(ループ)が肝心。この入出力のループを日々訓練することが大切だ、とある。

しかし普段は入力重用型の座学が多くなるのが現実だ。せっかくの夏休み。普段あまりやらない出力学習を意識した勉強方法:声に出したり、手を動かしたり、会話や作文、スピーチ。あるいは人に教える。説明する。(いっきゅうではやってますよ。) しばらくためしてはいかがでしょうか?

話はそれるが、我輩の母親は80過ぎで『般若心境』をなにも見ないで毎朝晩唱えている。我輩が暗誦出来ているのはほんの一部分だけだ。お経を暗誦できる年配方は多いような気がする。『気持ちと繰り返し』がだいじなのだろう。ただ、唱えるのではなく、心をこめて毎日、朝晩 読んでいくうちに、脳は自然と覚えるのだろう。

追記:『バカなおとなにならない脳』になるには勉強ばかりでなく、脳のループを訓練するため運動・遊びも大切だそうだ。



  


Posted by いっきゅう  at 16:28Comments(0)学習法読書

2015年06月08日

明るいほうへ

金子 みすゞの『明るいほうへ』という詩がある。

本当の明るさを知らない、陽光に恵まれないものたち。 植物でも、虫でも、こどもでも、明るいほうへ 明るいほうへ 向かう、と・・。



では陽光が十分に満ち足りたものは、それで十分にしあわせなのだろうか?

むしろ、居る場所が明るいだけに、ほんのわずかな影でも目立ってしまうではないだろうか?『明るいほうへ』の時代が金子 みすゞの生きた 暗く、貧しい時代だとすれば、現代の日本の私たちは『明るさ知ってしまった後の時代』を生きていくものの問題を抱えているようにも思える。 みすゞに言わせればなんとも贅沢な悩みだろう・・。でも悩みは悩みだ。

金子 みすゞの詩に触れたのはつい最近である。市立図書館の宮沢賢治の本棚の近くで、金子みすずの詩集を見つけた。名前だけは良く耳にしていたので何気にパラパラと薄い本をめくっていたら、どんどん引き込まれていった・・。

まず読みやすい。ことばが平易でリズムが良い。。穏やかで可愛らしいイメージがリズム良く続いていく・・。そして最後の最後で、バーンと大ドンデン返しがあったりするのだ!! 読んでて楽しくなる・・。


でも、楽しさのむこうに深い深い哀しみを感じないわけいかない。さらに哀しみの向こうにさらに、ドッキとする怖さ。生きるということの根源を問う事の怖さがあるように感じる。 しかし、そのまた向こう側に仄かな明るさがあるのだ。



それゆえ童謡詩であるにもかかわらず、多くの成人がひきつけられているのだろう。


シンプルなだけに、つい、こんな詩を書きたいと思せる。もちろんそう思うだけで、そう書くことなどはできない・・。

でもやっぱり、書いてみたい、と思うのだ。



  


Posted by いっきゅう  at 14:52Comments(0)読書

2015年06月02日

こだまでしょうか?

南多久町南渓地区にある懐かしき木造校舎跡。


不意に何処か異空間スポットに落ち込んでしまったかのような錯覚を覚えた・・。





不思議な波長があたりに蔓延しているようだ。








こだまでしょうか?






・・・かつての児童達の声の響き渡っているかのようだ。


森のキンコカン。 カムパネラやジョバンニたちが走り回っている・・・。





そう、 そう、 ここで、宮沢賢治や金子みすゞの朗読したら、よかんべ?  


Posted by いっきゅう  at 07:30Comments(0)息抜き・・・読書

2015年05月24日

宮沢賢治の手紙『あたまの底のさびしい歌』

『私はもし金をもうけてもうまいものは食わない。立派な家にすまない。妻をめとらない。』

今、宮沢賢治の親友や家族に宛てた手紙を集めた:『あたまの底のさびしい歌』を寝る前に読んでいる。



手紙には自己嫌悪、無力感や憤りの言葉に満ちている。たとえば父親に生活費を無心する手紙で、空想のみを生活して完全な現実生活から逃れて、ただもう人に怒り、世間を憤り、そのあげくに師や友を失い、うつ病まで患ってしまった・・ようなことを書いてます。

親や親友に宛てたプライベイトな文章なので、もし賢治がこの手紙の出版を知ったらきっと、真っ赤になって恥ずかしがるだろう。でもそれ故に、読むほうとしては素の賢治が感じられるのだ。生活力があまりない純粋で生真面目であると同時に未熟な空想家のちょっと情けない感じが親近感を抱かせる。手紙の中の賢治は『今どきの若者ときたら・・』と大人から嘆きの対象となる、頼りないけど理想と夢を持った今の若者とあまり変わらない気もする。(音楽は自分の生活には欠かせない、と書いており、実際貧しい生活の中、自給自足的生活をしながらも、レコード鑑賞や楽隊を作ったりしているのだ。なんだかインディーズで活動する今どきの音楽好きが口を揃えて言う ”NO MUSIC NO LIFE” の生き方:ニューエイジの先駆けのようだ。)


賢治は理想と現実の間で、あるいは仏道と世俗の間で真剣に苦しんでいるのが手紙から痛々しくもある。 しかし、真剣であればあるほどこかにヒューモアを感じないわけにいかない。そういうところが面白い。


とくに可笑しな印象的な内容として、『春から生き物のからだを食うのをやめました。』 と宣言しながら、刺身を食べてしまい、自己嫌悪のに陥ってしまい、『私は前にさかなだったことがあってくわれたにちがいありません。』などと書いてしまってるのだ。



賢治はすべての生きとし生けるものに全身全霊をもって感情移入してしまう感受性によって、苦しみ、また作品を生み出した。

彼は、理想の自然の調和と現実の暮らしの狭間で時に苦悩している。人間の生活様式が利便性を追い求めるあまりに、多くの豊かな価値あるものが失われていく・・・。不便で手間はかかるが、自然とともに生きるという人間の暮らし方が犠牲にならざる得ない時代の流れを賢治は百余年も前に全身で感じ取っていたのだろう。 賢治がイートハーヴと名づけた故郷でもある東北の震災後の日本を見たら賢治はどう感じるだろうか・・・。




彼の若すぎる晩年のほうの手紙では、

楽しめるものは楽しみ、
苦しまなければ苦しんで
いきていきましょう。



また書きます、とある。

  


Posted by いっきゅう  at 23:45Comments(0)読書

2015年05月11日

英文:日本語のリズム:樋口一葉+はっぴいえんどの場合

英語には抑揚があり、日本語は単調という言い方がされます。たしかにそういう部分がないとはいえませんが、日本語は日本語なりの抑揚があるとおもいます。特に古文や明治期の文章に独自の抑揚を感じることがありますので樋口一葉を例に考えてみようと思います。英文パラグラフの下の日本語は要約です。




Some particular styles of Japanese have special rhythms like English. As you might know, Haiku and Waka poems have specific rules. The number of syllables is regulated, as demonstrated by the 5-7-5 syllabic structure of Haiku, and the 5-7-5-7-7 syllabic structure of Waka. It gives some stresses and rhythms to poems. The sentences of old Japanese literature also sound like these poems. I think the Japanese language has been losing these aspects through modernization since the Meiji era. This is evidenced by the fact that Japanese seems to sound more monotonic.

たくさんの音やリズムをもつ英語に比べればの日本語は単調と言われる しかし五ー七ー五調の俳句や五ー七ー五-七-七調の短歌や古典文学は独特のリズムがあった。しかし現代日本語はその独特の抑揚をどんどん失っているのは明らかであるように思う。





Let me talk about Ichiyo Higuchi, who was a female writer in the Meiji period. One of her masterpieces, “Takekurabe”, refers to “comparing growth of heights”. It’s a kind of virgin-love story of a boy who was born with a silver spoon and a girl who is a child of a Geisha in Yoshiwara, Tokyo. Upon opening the pages of it, I could see vivid scenes of the world through its text. Furthermore, the rhythms of the style are special.It had special rhythms, intonations, and syncopations like music. The style of writing is totally different from our style of writing in modern day Japan. The Japanese language has changed quite a lot. Of course, Ichiyo was greatly influenced by the classic language found in Waka poems. I believe that Japanese used to be much richer in the past than it is today. 

樋口一葉の小説を思い出して欲しい。たとえば、たけくらべはいつ終わるかわからない切れ目のない文章でありながら、すっ~と、映像と展開が入ってくる。なにより語られる日本語のリズムの心地良さは気持ちの良い音楽を聴いている感覚に近い。その秘密は独特のリズムある文体である、と考える。一葉作品の朗読を聴いたことがあるが意味を追わなくともただ言葉の音のつらなりだけで気持ちいい。一葉が生きた明治期の文学を読むと現代の日本語よりずっと豊かに感じられるのだが・・。
宮本順子布絵






追記『はっぴいえんど』について
現代日本語の独特の抑揚を徹底的に意識化したのは実はロックミュージシャンであったことは示唆的である。フォーク+ロックバンド『はっぴぃえんど』は日本語のリズムを元来英語の抑揚から生まれたロックのリズムに乗せるという大実験を行った。その実験のもと生み出された現代の日本語による抑揚のある独特の言葉の世界観は高度成長期の東京の原風景を見事に映し出しており、40年経ったいまでも色あせることはないのだ。








  


Posted by いっきゅう  at 11:20Comments(0)塾長のひとりごと。読書

2015年05月01日

星めぐりの歌:宮沢賢治と散策

”あかいめだまのさそり、 
ひろげた鷲のつばさ、 
あをいめだまの小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。
オリオンは高くうたひ・・・・”



先日、宮沢賢治の『星めぐりの歌』をモゴモゴと口ずさみながら久しぶりに昔通った小学校への通学路周辺を歩いた。何十年ぶりに歩く道もあった。当時と変わってないところ、まったく変わってしまったところ・・。坂道、川、家屋 、裏路地・・なんどか夢でも見たような場所。走ったり、しゃがんだり、笑ったり、転んだり・・道草ばかりしていた光景が浮かんできた。懐かしさとどこかしら不思議さが入り混じった感覚に浸って歩いた。



宮沢賢治は自然豊かな故郷の散策を好み、多くの発想を得たという。賢治のすごいところは、足元のミクロな自然 (朝日にキラメク蜘蛛の巣の震えや小さい虫の目玉など・・。)から得た想像力を宇宙大まで爆発させているところだ。ただ歩くだけで自然から発せられる無限のエネルギーを全身に受信して全感覚あるいは全霊魂が反応してしまう特殊な能力をもっていたんだろう・・・。




賢治から見れば遥か何万光年ぐらい遠く及ぶことはない凡才の我輩であるが、ほんのすこしだけ『宮沢賢治』を気取ってみた。腕を後ろに組んで五感を研ぎ澄まして宇宙を感じようと歩いてみた。






星めぐりの歌 宮沢賢治 作詞 作曲 林 光編曲

すごい、まるでニューエイジだ・・。 時代超えてるなぁ・・。  


Posted by いっきゅう  at 09:01Comments(0)読書

2015年04月23日

『数学は美しいか』

久しぶりに図書館に行ってきた。雑誌:考える人『数学は美しいか』 を借りた。

そもそも論理的に考えて数学と美は相容れないものではないか?数学は数の世界の理論であって、美の感覚とは無縁のものでは? 

ただ、塾講師としてその言い方は納得できるものでもある。 中・高生に教えてるレベルの数学でも、スマートな美しい解き方というものが確かにある。きるだけ煩雑な計算をやらない。くどくどとまわりくどくない。シンプルで無駄のない解き方を美しいと言い方はできる、と思う。では、数学者の考える美しい数学とは・・・。




この雑誌には『私(数学者ら)が世界で一番うつくしい数式・証明集 』が載っている。オイラーやコーシー カントルーと、著名な数学者の名前を取った世にも美しいといわれる数式・証明が選出されている。パッと眺めただけでは正直、我輩にはムヅカシスギル・・。理解できないという以前に知識が追いついてない。(そのうち2つだけは解説を読んで理解できた。)このレベルの数学が美しいと言えるのはきっと数学者あるいは高等数学に精通した人のみだろう。意味がわからない人にとっては単に記号と数字の集まりにしか見えないだろう。ファインアートが美しいといえるのも、現代美術のことがある程度分かってはじめて言えるのと同じではないだろうか・・。




解説等を読んでみると、結局のところ、美しい数学とは『難解で広大な数のカオス世界を簡潔に抽象化できている』ことであろうかと、浅学の塾講師に過ぎない我輩はそう感じ取る。それはある種、芸術作品を見たときと同じ感動と共通項があるようだ。美術にも普遍的美の追求、抽象化という命題があるので、これは数学に通ずる、と言えよう。







  


Posted by いっきゅう  at 10:04Comments(0)数学あらかると。読書

2015年04月20日

道草と日本語

大学生の頃、明治の文学を夢中で読んでた時期がある。

夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、泉鏡花 ・・文章が凛としている。文字の連なりが音楽的で、視覚的にも美しい。読んだ後、背筋がピンと伸びたような気になっていた。つまり文体に品格があるのだ。

漱石の『道草』の一文 「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」 胸にドスンと来る表現だ。



日本語の特徴は漢字かな混じりにある。表音文字と象形文字で名詞 ・動詞・形容詞・副詞などそれ自体意味の有るものを漢字にして、意味のない助詞などはひらがなにする。そうすることでバランスが取れて、ずいぶん読みやすくなる。 (ひらがなや漢字ばかりの文章ほど読みにくいものはない。) さらに用途に応じてカタカナまである。しかもニュアンスによって漢字ひらがなカタカナは自由に組み替えられるのだ。表意文字である漢字ばかりの中国語や表音文字の英語に比べなんと機能的なんだろう・・・。このような表記システムを持った言語って他にあるのだろうか?それは明治期の言文一致運動によって確立されたのだろう。





明治期は口語と文語が一致しておらず、漢文や文語体と口語のハイブリットの実験過程である。それ故に言葉に対する緊張感を感じる。そして出来上がった明治期の文体には品格を備わっているのだ。

最近の日本語はもう出来上がり過ぎてたせいなのか、平板で緊張感がなく、そういう魅力が薄れてるような気もしないではない。



再び『道草』 漱石自らからの実体験を小説にしたといわれる。
「世の中に片付くなんてものは殆どない」なんて凄みのある台詞だ。   


Posted by いっきゅう  at 08:45Comments(0)いっきゅう文庫読書